左官職人の方へ

私の実家は、江戸時代から代々続く左官屋です。

群馬に新潟から出稼ぎに来た祖父が、群馬で独立をし現在まで、続いています。

祖父は、5男。私は3男。祖父と私は共通点があるように思います。お互い後継ぎは、他にいますし、根っからの左官人間で、誰にも縛られず、自由に研究しながら仕事がしたいという気持ちから独立をしています。祖父の昭和12年の手帳を見ると、最初は、一人親方で、仕事が切れない限り、休みなく働いていたようです。私は、日曜はきちんと休んでいますが・・・ その頃は、まだ、日曜だから休むという習慣がなかったのかもしれません。

その、左官人間の頑固じいさんが、病に倒れたのは、昭和44年。それは、突然で、脳梗塞だったそうです。手足の自由が利かなくなり、今までゆっくり休むことのなかったおじいさんが、病床で書いた手紙が、仏壇の引き出しから出てきました。。。

 

その手紙には、左官や家族を愛する祖父の思いが、ぎっしり詰まっています。

左官一筋のおじいさんが残した貴重なメッセージは、私たち家族だけでなく、世の左官職人へのメッセージだと思い代わってここに抜粋し紹介させていただきます。よろしかったら読んでみて下さい。

 

『病を得て感じたこと』

 

このたびは、病気に対し組合から、多分のお見舞いを頂き有難く厚く御礼申し上げます。

発病

44年5月2日さわやかな早朝いつもの様に目が覚めた。驚いたことに右半身が著しくしびれて自由を失っているのである、愕然としたが2,3日前にも現場で一度しびれたが、たちまち治ったのでこれも大した事もあるまいと思ったが、家人は、大いにうろたえ騒いで、兄の病院へ電話した。

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しかし、職人が体の自由を失う事は生命を奪うも同然なのである。一朝にしてこんな体になり長い病気だと自覚した時は全く絶望のドン底に転落した。涙がとめどなく頬を伝った。そして、私の家人一同もまた盛りに悲観している私に対し良く理解し、看病してくれた。お陰様で幾分か快方に向かい歩いて医師のもとへ通う事が出来るようになった。病気が、段々と快方に向かうと共に不思議な程、病気を治そう、そして、もっと生き続かないと、言う勇気が湧いて来るのを自覚したのである。

病の床の中で

さて、愈々病気ということになり、何が何でも静養を余儀なくされ、生まれて初めて一日中寝ていなければならないということになると、過ぎ去った過去、これから先の事、現在自分たちが置かれていること等を考えさせられるのだが、これらは、ほとんど不平・不満・失望が大部分であり、愉快な事や、得意の事は、全くない言わばぬかるみの路を歩いて来た事に気付いたのである。

今までは、夜が明ければ今日一日の仕事の都合を案じ、日が暮れれば、明日の人手や材料の事ばかり考えていて、社会の様子など考えている暇はなかったのだが、病の床で枕元のラジオや、部屋の一隅に大きく面積をふさいでいる、テレビを見たり聞いたりしていると、急に視野が広がり今まで見てきた分野は、社会のほんのわずか、極めて小さい点でしかなかったことに気づき病気のお陰で世間の事が判って来た訳である。

いったい我々の社会では、職人が足りない、あっちからもこっちからも仕事の催促が来る。手が廻らないからサービスも悪くなる。とくに我々の業界では『弟子』いや、今の時代に『弟子』等という言葉を使っては、もってのほかだが『見習いさん』がないと嘆いている。即ち社会的に言えば、後継者がないと嘆いて居る。

後継者が居ないと言う事は確かに大きな問題である。なり手が居ないという事は、その職人がどこか経済的か、団体的か、社会的かに大きな欠陥があって不利益だからである。その内のどれか一つでもかけていてもなり手がない事は、当然であるが、我々の業界にはその三つがそっくりかけて居ると思う。今時の青少年に対し、全然魅力がないのは当然である。昔は、紺の股引きに印はんてん姿がカッコ良いと計り、そのカッコ良さになり手があった程一つの魅力というか、あこがれがの様なものもあった様なのだが、今の我々には、どう見てもあまりカッコ良い何物も見当たらない。

果たして、我々の技術は、社会が認めているだろうか?

【省略】

朝から、テレビの放送は、農林水産の放送が多い。日本中がオール農家だとでも思っているのだろうか?我々工業技術者、いわゆる職人社会の放送は、見たことがない。ダラダラとしたつまらない番組の中でせめて我々の為、工業技術者・建築技術者、いや、職人の為に幾時かを割愛出来ないものであろうか、それは、一般社会から問題にされていない証拠ではないだろうか?これを一般社会に取り上げさせ認識させることが我々組織の力であり、また、常々我々知識や技術の水準を高め技能者の地位の向上を図ってくれるのである。

我々の技術や立場を認めさせるにはー

元来職人仲間から、いわゆる熊さん、八さんと言われ、落語の材料にされてきたものもあった。ひょうきんで、馬鹿正直で、その上無学で、それでいて悪人でない。なんに対してもあまり頭の使える男ではない場面に利用されて来たようだ。それは、我々職人そのものに教養がなかった為にうまく利用されたのだ。今日だったら、組合の皆さんが承知すまい。

当然日左連あたりの偉い方々が業界を侮辱するなとばかり抗議されると思うが、なぜ我々職人が落語の材料にされ、余り社会の上位にすえてくれなかったのかといえば、とかく、我々に教養が欠けていたからではないだろうか?

一度人間の教養と言う事に気がついてみると、今まで我々は大きな問題を見落として来た事に気づくのである。今頃になって気付いてみて本当に後の祭りという訳だが、我々が社会に認められその地位の向上を図るには、何といっても技術と教養が併立しなければならないと思う。どんなに優秀な技術を持ち、それこそ新宮殿を仕上げるほどの腕を持っていたとしても、その人に教養がなく、熊さん・八さんの生活をしていたら、決して社会はこれを尊敬しないだろう。

それでは、なぜ職人は教養に欠けていたか?それは、即ち職人の技術があまりにも面倒であって、その技術を習得するには、他の何事も観ている余裕がなかった。我々左官の技術にしてもテレビの料理番組の様に、あれを何匙、これを何匙、という訳にはいくまい。現場の環境・材料の性質・自然の現象の状態・予算との関係・など千差万別、一つとして同一のものはないのが普通である。これを、一々物理的・科学的に研究して混合し、数学的に割り出して仕上げをしていく訳にいかない。頼まれれば、出来ませんと降参してしまうことも容されまい。出来がまずかったと言ってしくじらせれば、金はもらえない。技術を習得するにはすべて自分の体験と経験の積み重ねによって習得するのであって、先生や講師の説明で身につける事は出来ないのである。

これが、従来見習いさんが親方にしごかれるのでなければ、とても習得出来ないところであったと思う。こうした事が、我々をして教養という面から遠ざけその余裕を持てなかった為に、熊さん・八さんにしてしまったのではないだろうか?

 

近代多くの青少年が大学の門をくぐる結果となり、技術者を志す中学卒業者が『金の卵子』として引っ張りだことなった事は、技術者が認められ始めた結果であり、すでに床屋さんが理容師、髪結い屋さんが美容師となりいずれも先生の称号を授けられたとかある。人が床屋に行って「先生」といったらテレ臭そうにしながらも満更でもない様な顔つきだったとか聞くが、この次に先生と呼ばれるのは、我々の番かもしれない。我々は床屋さんに比べれば、毎日命がけの危険を冒し、もっと難しい作業を続けているのだ。我々の方が、余程先生の器ではあるまいか?幸いにも目下の処、我々建築技術者の数は極端に不足し需要と供給は、大きくアンバランスの状態である。この現状は、我々が、我々の技術を社会に認めさせ、如何に機械機械と言っても、我々が習得した重度の技術に対し、従来の認識をあらためさせ、そうして之を尊敬させるまで築きあげるには、絶好の機会だと思う。それには、我々ししても幾百年以来洗練された日本的建築技術の保存を共に、一方近代的な建築が要求する新しい技術の研究発揮とにより、先ず自分たちの技術によって得る所得の増加によって、生活の水準を高めなければならないと思う。その為にも技術と教養のバランスを得、断じて熊さん・八さんにならぬ様努力すべきである。

かくしたことが、我々の自覚を促し、そして、実現した時こそ我が子、我が孫が世間に向かって声を大にし『我が父は左官である』と誇り高く答えられる時であると、確信するのである。

                                                                          以上

 

最後まで読んで下さってありがとうございます。

時代は、移り変わっていきますが、祖父の想いは、今の時代にも言えることだと思います。

少しでも多くの左官職人の方の心に響き自覚を持ってお仕事に専念してしていただき、新しい事にチャレンジ研究しながら、昔ながらの技術を社会に伝え、多くの人に左官の良さを知っていただけたら、今後左官業界の発展・向上につながると私は思います。若い人たちがただ働くのではなく、左官技術は素晴らしくそれを必ず後に伝えなくてはいけない技術だと責任を持って働いていただけなければいけないと思います。一人一人が、熱い思いで仕事をすれば、きっと町中が塗り壁のお家だらけになるのではないでしょうか?

祖父はこの手紙を書いた5年後の、49年5月1日 享年66歳で亡くなっています。

無念だったと思いますが、祖父の思いはしっかり子・孫が引き継いでいます。父から今その子供たちが、そして今後私たちの子どもたちが引き継いでいきます。祖父に会うことが出来たら、胸を張って言えるでしょう。

『我が父は左官である』と・・・